恵迪寮の歴史

 恵迪寮には130年近くの長い歴史と伝統がある。時の流れとともに変化はあるが、恵迪寮の「自分たちのことは自分たちで決める」という自主自立の精神は今も変わらない。

寄宿舎~初代恵迪寮時代(1876~1931)

 1876年に北大の前身となる札幌農学校が開校、同じ年に現在の時計台あたりに寄宿舎ができる(恵迪寮の前身)。その後、1905年に寄宿舎が新築された時に恵迪寮と名付けられた。

 寮自治については、1899年の第一期委員会の発足とともに本格的に歩みだした。それまで「大学から与えられた自治」としての面が強かった自治制度が、この寮独自の方向へ進んでいく。具体的には、寮独自の自炊制度を確立、消費組合を結成して購買部の自営を行っていた。寮自治の全盛期と言われるほど、この頃の寮自治は充実していた。
 寮内の雰囲気は、バンカラ気質に溢れ、連日連夜寮生たちが夜街を怒鳴り歩いていたこともありやりたい放題やっていた。


二代目恵迪寮(1932~1982)

  太平洋戦争が近づくにつれて大学当局は寮自治への介入を強めていった。1940年には、寮運営のシステムが寮生の選挙による執行委員会制から大学の任命による幹事会制に変更された。さらに物資不足などの影響もあり、自治の象徴であった自炊制度、購買組合までも廃止されてしまった。寮自治は一時崩壊を迎えていく局面を迎える。
 寮はいわば戦争のための修練の場となり、朝礼や体操などの実行が強化され、寮生は空腹と束縛に苦しめられた。だがこんな時代の中でも、寮生たちは「いくら外面的に規定しても、内面的に我々の生活を規定できるものではない」という気持ちを持ち続けていた。

 その後終戦を迎え1946年には新委員会が発足し、寮自治は再建され始めた。しかし、この頃の自治会会が対処しなければならなかったのは、対大学当局的な問題ではなく、深刻な食糧難だった。
 執行委員は勉学を犠牲にして寮生の食料確保に努め、無断で北大の農場に入り芋などを盗んでいた。そんな辛い時代の中でも、「上級生は下級生よりも余計に食わない。もし食ったものがいたら軽蔑された」という礼儀は続けていた。

 その後の安保闘争、学生運動の時代を経て、1970年ごろになると寮の老朽化が深刻になり、建て替え問題が本格的になった。
 当時の寮生たちは、3人から5人程度の複数人数での共同生活を通して寮生間の幅広い交流を行い、濃密な人間関係を形成していた。しかし学生運動の影響もあり、文部省は学生の共同生活は社会の危険因子を産むと考え、完全個室で食堂のない寮でないと新しく建ててはならないと決めてしまった。そして大学側もそれに従って新しい寮を建てる意向であった。寮生は反対するが、新たな寮の建設は決定した。




三代目恵迪寮(1983~現在)

 1983年に現在の三代目恵迪寮が建てられた。大学の管理強化の中でも、寮生は自分たちの望む生活を得るため創意工夫し、大学当局側と対立していった。
 まず昔から続いていた共同生活を続けるために部屋サークル制を採用して、寮生同士が活発に交流を持てるように複数形態で暮らすことを考案した。当初は、完全個室性を主張していた大学側に反対されたが、寮生は共同生活の重要性を主張し続け、後には複数形態部屋が認められることとなる。
 また、当時は大学の職員が寮の事務室を運営し、寮内の見回りまでしていた。寮生はそれを大学側による寮への一方的な干渉だと考え、事務員を追い出した。そして寮生の手で管理・運営していくことにした。

 そして、1994年には男子寮だった恵迪寮に女子の入寮することが決まり、現在では男女混合寮として生活している。